昭和のニシタチ

カテイ堂は現在の店主 桑原恭子の両親である楠本勝茂・信子夫妻が昭和32年3月に始めました。

当時はまだ「ドラッグストア」という言葉さえ存在していません。
戦後の日本は復興から発展のフェーズへ移り、急速に国民の生活が向上しつつありました。

  • コカ・コーラが発売開始
  • カラーテレビの実験放送が始まる
  • 岸信介氏(安倍晋三の祖父)が内閣総理大臣に
  • 軽三輪自動車やアロハシャツ、フランク永井の『有楽町で逢いましょう』が流行

昭和32年の日本はこんな時代でした。

目次

カテイ堂が見てきたニシタチ

創業者の妻 楠本信子は俳句を嗜み、いくつかの句集を自費出版しました。
その中の一冊に、カテイ堂開店当時の思い出を綴った一節があります。

タイトルは『みやざき銀座』。

宮崎も戦後の何もかも失った時代から立ち上がり、その後経済成長を遂げました。
そしてカテイ堂はもっとも華やかだった時代のニチタチを、見つめ続けてきたのです。

楠本信子が平成7年(1995年)に出版した『夕東風』より、そのコラムをご紹介します。
昭和から平成にかけて移り変わる街への追憶に哀愁を感じる筆致です。

みやざき銀座

私達の生計を支えて来た柳並木の美しい西橘通り を、 「宮崎銀座」とひそかに呼んでいる。
昭和二十 年代は道もなく小川が流れていた。三十年代になる とあっという間に道が出来、家が並び県庁の横にあ った屋台が集まって来た。 その場所に猫の額ほどの 土地があったので、掘立て小屋を建て、粉や材木を 商った。しかしその頃開店するのは、クラブ、バー、 食堂ばかり。

何時の間にか色町になっていた。 材木を置いてい ても宮崎銀座には全然似合わないし、客も来ない。 一念発起して勉学に務め、県の薬種商の試験に合格 し、薬と化粧品を置いた。

開店は三月の寒い日であった。冷たい夕風に押さ れるように、ホステスさん、バーテンさんが店に流 れて来た。トリスバーの看板に書いてあったハイボ ールを、一度は飲んでみたいと思いながら今だに果せないでいる。

あの独特の香水とポマードのおりなす複雑な匂いは今はない。

Follow me!

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA