店主桑原恭子のよもやま話
カテイ堂の誕生とニチタチ
小学校1年生になるかならない時でした、私の両親がここ宮崎市内のニシタチという場所に、薬と化粧品の店「カテイ堂」を開店させたのは。
「ニシタチ」と今では宮崎の県民市民に認知されていますが、昭和30年当時は、ただ住所が西橘通りというだけの、きわめて当たり前の呼称でした。
店もまばら、うちの店を出れば、幹線道路の橘通りが100メートルほど東に遮るモノなく見渡せました。
年に一度、その道路を北から南へ渡る神武大祭の祭りの行列がありましたが、それも人垣の向こうに店の前から容易に眺めることができました。
そんなカテイ堂を私が受け継いで30余年がたちます。
昭和~平成~令和のニシタチを見守ってきたカテイ堂と老舗たち
環境は大きく様変わりしました。
ここニシタチも県内一の歓楽街になるのにそう時間はかかりませんでした。
小学生の時に、「センター」という映画館ができました。
「センター」が火事で焼けるまでニシタチの別名を「センター通り」とよんでいました。
ニシタチの老舗中の老舗であるトリスバー「赤煉瓦」はそのころにはもうありました。赤煉瓦の娘さんと私は同級生。
お向かいの「茶居珈」(喫茶店)、それから、ちょっと向こうのおでんの「よんしゃい」。
いずれも子どもたちは同級生です。
カテイ堂が半世紀以上続いてきたその理由
さて、そんな「カテイ堂」も私で3代目。そんな私も
とうとう後期高齢者、呼ばれるオン歳になりました。
子供も孫も皆それぞれの道を進むなか、私はこの「カテイ堂」をどうしてもやめられないワケがあります。
うちの店で扱う「ホノミの漢方」が他ではなかなか手に入りにくい、と
多くのお客様がこの「ホノミ」の薬を求めていらっしゃいます。
私はこの年になるまで、大病を患ったことがありません。
ここまで健康でらいられたのは、ひとつには「ホノミ漢方」のおかげだと、近ごろしみじみ感じます。
まだまだ元気やっていきたい。「ホノミ」と共に。
そんな思いを胸に今宵ももみなさんをお越しをお待ちしています。